時計に関する随筆シリーズ(61)  

FRANCK MULLER LIMITED 2000 Ref.#2851S6 Cal.FM2800

『極上時計礼讃〜(Part2・FMアガリの考察編)』



『極上時計』の定義について2005年9月に5項目 を唱えた。
この基本軸は今でも変わらない。
そうであれば理想の時計に巡り会うのもさして苦労はしないはず。
しかしながら、このリミテッド2000に辿り着くまで、如何にまわり道をしてきたことやら。
今回は『時計オヤジ』的アガリの考察で自省の意味も込めてここに至るまでの軌跡を辿ってみる。


(『極上時計』の条件を再考察する〜)

冒頭で述べた筆者提唱の『極上時計の5条件』をおさらいしてみよう:
1)信頼がおける「時計メーカー」のブランドであること (歴史重視)
2)デザインに独創性があり、かつクラシカル路線にあること (ネオクラシック重視)
3)そのムーヴメントの仕上げも丁寧で、継続生産されてから3年以上経過していること (機械の信頼性重視)
4)全体のデザインバランスが自分の嗜好と合致し、『是が非でも』との購買意欲をそそること (意匠と感性の融合重視)
5)これから最低10年以上に亘り所有する喜びが得られると確信できる時計であること (納得時計)、、、

確かに上記5条件は今でも狂いはない。
自分なりの基準軸に今も変化が無いことは喜ぶべきか。
しかし5条件をもっと絞込み、極上時計のエッセンスとは何かを考えた場合、『時計オヤジ』の考える『良い時計』、『極上時計』を生み出す条件は、更に以下の3要素に集約される。
@ 時計メーカーとして独自の、確固たる『哲学』を持った会社であること。
A デザイン、ムーヴメント、全体のバランスが『極上』であること。
B 『CSR活動』以前に自社製品に対する品質・アフターサービス体制にに手抜きが無いこと。


キーワードは『哲学』、『極上バランス』、そして『アフターサービス』に尽きる。
5条件から3条件に集約したことで、ますます曖昧模糊に思えるかも知れない。
しかし、この3条件こそが『極上時計』を表現するに相応しい基準、と昨今考えている。
以下、理由を述べる。

@ 『哲学』:
まさしく、その会社の持つ思想・文化・戦略まで含めた『自立性』に他ならない。
時計業界がゆえに流行と無縁ではいられないのは当然。しかし、自社の開発・上市するモデルに確固たる信念と哲学を持たせているか。単に、流行に乗った商品ではなく、明確なる思想・戦略・将来への方向性を保持した上でのモデルであるか否か。仮にその『哲学』がメゾンに存在したとしよう。その『哲学』なるものを果たしてユーザー側がどこまで認識・理解出来得るのであろうか。ユーザーは時計評論家ではない。ごく一部のマニア層はあくまで少数派に過ぎぬ。ユーザーの9割以上は、ごく普通の一般ユーザーと推測する。そうであれば尚更、メゾンは安易な方向性に安住したり、手抜きを行ってはならない。『極上時計』のカテゴリーに入ってくるメゾンは、”一見さんお断り”とまで言う必要は有り得ないが、正々堂々と自社の『哲学』を謳うべきである。各社のマーケティング手法ともからんでくるが、歴史が浅いメゾンであれば、より強く『自社の哲学、目指す理念』を主張するべきだ。逆にそれが出来ないメゾンはファッション時計の域を出ない。一方で、既に歴史も長く知名度もあるメゾンは『自社の哲学』が確立されている。その上で、自ら殻を破り、新たな方向性を加味し、新しい顧客確保の為に広報活動を行えば良い。つまり、どのメゾンにしてもユーザーへの啓蒙活動、そして自社内における開発と自己啓発努力、常に最善を求めた哲学の見直しに終わりはないのである。

A 『極上バランス』:
全体のデザイン、極上バランスと言う表現は抽象的だが、これらはユーザーたる消費者側としても見る目、眼力を問われる。
同時に、『眼力の質』についても議論が沸騰するところであろうが、敢えてこの点は我々ユーザー側の能力と嗜好の問題、としておきたい。もっと単純に言えば、『極上』の判断基準はユーザー各自で異なるのだが、どこに極上の基準を置くかが鍵となる。メゾンとしては製品の細部まで、例えば文字盤、歯車、ビスの仕上げの一つ一つにまで手を抜かないこと。当然であるが、当然でないモデルもこれ数多(あまた)。
一流どころのメゾン各社はジュネーヴ・シールを取り入れたり、自社内に独自の品質基準を設定したり、果てはショパール・パルミージャニ・ボヴェらのように新たなメンバー制による規格を設立したりで品質の高度化、差別化に抜かりが無い。こうした努力は全て『極上時計』につながる。現実論ではないが、例えばJ.リーグ、WCサッカーのように一部二部リーグにメゾンを色分けして、メゾンを明確に品質で色分けすることが出来れば面白いかもしれない。評価・選定するのは有識者、専門委員会、そして消費者とする。選定の基準には一定の数値・仕上げ・精度・顧客満足度を標準化(数値化)する、などなど。こうして考えると従来のカテゴリーでは捉えきれなかった全く新しい『極上時計メゾン』が現れて来る可能性もある。

かつてチャーリー・チャプリンが映画『モダンタイムズ』で、近代文明を皮肉った描写があった。
今でも、例えとして言われるのが”社会や企業の『歯車』で終わりたくない”、”『歯車にすぎない』生活はつまらない”、という意見。社会の枠を飛び越えて、単独で未知の世界へ挑戦することは勿論結構。しかし、仮に社会・組織の歯車であろうとも、どのような歯車で自分を終わらせるのか、その仕上げ(努力)次第で結果は全く異なる。一つ一つ見事に仕上げられた歯車の集合体は、素晴らしいムーヴメントを創り上げる。逆に一つの歯車といえども、その出来不出来が全体の仕上げに微妙に、時に致命的に影響する。いち歯車、で終わろうと結構ではないか。そうであれば、極上の材質を用いて、ピカピカに研磨を施し、その歯の形状も伝達動力ロスが極力少ない効率的なものとし、最高の仕上げを求めたい。細部までの木目細やかな仕上げで品質全体へ貢献する。人間の社会、自分の人生と何ら変わることはあるまい。『神は細部に宿る』、とはそういうことだ。スケルトンバックから見える極上仕上げの機械達を見ていると、ふとそんな感慨にもふけってしまう。

B 『充実したアフターサービス体制(真のCSR活動)』:
これが極上時計である為の最重要ファクター、と最近では考えている。
CSRとは企業の寄付や環境・慈善活動のみを意味するのではない。

ここで特に指摘したいのは、メゾン側のユーザー・消費者に対する責任姿勢である。簡単に言えばアフターケアに問題は無いですね、ユーザーにしわ寄せ、負担を与えていないですね、売りっぱなしにしていないですね、という意味だ。時計のオーナーであれば、特に繊細な機械式時計のオーナーであれば、万が一にも故障したり、定期健診(OVH)の時などにストレスを感じる事も多かろう。正規店、並行輸入店による販売ルートで対応を差別するメゾンは言語道断であるが、実際には意外と多いのが残念ながら現実。ROLEXのように、あれだけ大量生産をしながら、全てのユーザーに均一のサービスを施す姿勢〜それも全世界において〜は時計業界の手本ではなかろうか。こうした点も踏まえてROLEXを『王道時計』と筆者が表現する所以である。

日本のJIS規格、PL対策に対応すれば製造部品には7年間の保持がメゾン側に要求されている。
しかし、こと時計においては7年で”ハイ、さようなら”では困るのである。使い捨て時計(いやな言葉だが)やプラスティック側を持つSwatchのような密閉式プレス式ケースであれば別だが、通常の時計であれば7年はおろか、ごくごく普通に使えば10年、20年は軽く使えて当たり前。カメラも同様。靴や鞄もそうだ。それをわずか7年のサービスで企業側が本当に区切るとすれば、それは『極上メゾン』と呼ぶには程遠い話。重ねて言うが、世の中で高級時計として名を馳せるモデルであれば僅か10年足らずで壊れることはまず有り得ない。仮に故障しても修理可能なはずだ。良質な時計を生産し、メゾンが生み出す自社製品への責任を全うすること。10年とか何年と言う期限で区切ることなく、真摯に自社製品と対峙し、ユーザー満足度に応え続ける継続活動。その工夫とサービス体制を構築し深化させる真摯な姿勢を通じて時計業界にも社会にも貢献する。それが時計メゾンの真のCSR活動の中核ではあるまいか。『売り手よし、買い手よし、社会よし』の論理だ。

これだけの機械式時計ブームの現在、これら時計を数年後に全てOVH出来る技術サービス体制が本当に各社にあるのであろうか?差別や格差無しで時間をかけずに対応することがメゾン各社最大の顧客サービス活動の源泉、といっても過言ではあるまい。ましてはコンプリでもない3針時計のOVHに10〜20万円以上もかかるなど、ちょっと考えものだ。現在のやみくもな脱進機開発競争、新素材の導入ラッシュは本当に極上時計として必要だろうか。時計業界が余りの膨張係数で壁に突き当たった結果のはけ口、自社技術力の誇示・時計業界発展の為、という衣を着たユーザー不在の開発競争に思えて他ならぬ昨今だ。オメガがコ・アークシャルを全モデルに導入しようとする意気込みを他の何社が同様に実現出来るものか、甚だ疑問だ。華美を戒め、質実剛健を重視するオメガの哲学には他メゾンも見習う必要が多かろう。


(そして『極上時計』とは最終的に自分のライフスタイルに似合うか否かにある〜)

のっけから可也、堅い話となったが、上述の基準で選ばれた『極上時計』であれば間違いあるまい。
しかし、所詮は時計、実用的装飾品である。自分の生活様式、ライフスタイルに似合わねば何の意味も無い。
時計で身分を証明出来るはずも無く、時計が人格に磨きをかけることも有り得ない。
逆にオーナーとのバランスが崩れた時計をすることは相手に警戒感をも与えかねぬ。一歩間違えば時に、滑稽にさえ映る。

『自分の身の丈に合った良質な時計』。最後はここに辿り着く。
極上時計の条件に合わずとも、特別な理由のもとで自分が気に入れば『最愛の時計』となる。
気張らずともそうした時計に1本でも巡り会うことが出来れば素晴らしい。



(現代の美麗トノーケース、ベスト3〜)


フランクミュラーに端を発して、今やトノーケースは確実にケース形状の市民権を得た、いやトノー復権を果たしたと言えよう。
フランク以外でベスト3と言えば、迷わず以下の3本を挙げる。

共通しているのは全て縦長、細長いトノーケースである点だ。トノーは縦長にスマートになる程、古典的で女性的なしなやかさを生み出す。クラシックテイストを狙うのであれば、角型時計であれ細長い形状に限る。逆に、トノーでも角型時計でも横への膨らみ(比率)が大きくなれば、安定感が増して落ち着いたデザインとなってしまう。縦長には視覚的にも不安定さ、見た目の華奢さ加減を生み出す効果がある。女性用にこうした縦長トノーが多いのも道理であろう(⇒追加でもう1本、「やや太め」で推薦すればフレデリック・コンスタントも候補となる)。


←カルティエ・CPCPシリーズから(撮影場所: ジュネーヴ市内)
  
CPCP(=Collection Privee Cartier Paris)シリーズ以外でもトノーはあるが、ブレゲ針をつけたモデルは少ない。この2針式、青焼きブレゲ針搭載の手巻男性用は素晴らしい。古典中の古典。古典をも超えた現代の傑作品とでも言うべきか。さすがはカルティエ。このデザインセンスはさすが。
革ベルトは非常に細い。恐らくラグ幅は16mm以下であろう。RG(ローズゴールド)に濃紺サファイアのカボションが優雅でドレッシー。ラグ形状も見事。こんなシンプル2針時計をさらりと着こなすことが出来れば、そのオーナーの生き方、ライフスタイルまで想像させてくれそうだ。
 フランクの#2851以外では、断トツに素敵なトノーモデル。
★★★★★





←ベダBedat&CoのNo.3、384-600系列のモデル(撮影場所: ジュネーヴ市内)

女性用だが、こちらのケース形状も見事。
特に上下の内側に湾曲したラインは独創性と古典へのノスタルジーを感じさせてくれる。写真は革ベルトモデルであるが、このケースは9連ブレスとのマッチングが素晴らしい。
出来ればREF.384.031.600のSSケース+ブレスでベゼルにダイヤモンドが埋め込まれたモデルが最高だ。ベダ独特の時針形状で、こちらも青焼きの2針式。文字盤トップにあるベダのロゴ位置、ローマ数字のデザインも秀逸。
クォーツ式であるが何ら抵抗はない。もしこのまま大型化してくれれば男性用としても十分に通用すると思うのだが如何であろう。
★★★☆





←ヴァシュロン・コンスタンタンのエジュリーEgerie:

REF.25040/000J-9052、こちらもクォーツ製の女性用。
バシュロンらしくない、と言っては叱られそうだが非常に大胆なデザインと思っている。
どこが大胆か。その理由は非常にシンプルに纏めた文字盤に尽きる。もっと手を加えて、色々仕上げで遊びたい気持ちを抑えて、必要最小限のバーインデックスと無国籍風デザインの12、6のアラビア数字だけに止める『抑制のデザイン』。単純に見えるデザインほど、実は緻密な計算と大胆な判断が宿る。ケース裏面はドライビング時計を彷彿とさせる曲面を描く。イエローゴ−ルドケースに銀色サテンベルトが非常にシック。品のある時計、知的な時計である。
★★★





(⇒番外編はオメガ・ミュージアム・コレクション・No.4、Petrograd 1915〜)


男性用の美麗トノーモデルに限定するのであれば、FM#2851、カルティエ・2針トノー、そしてこのオメガ・3針トノーがBEST3となる。
オメガPetrogradは、2004年のウィーン編でも紹介したように、男性用トノー御三家に相応しい造形美を誇る。特に可動式のワイヤード・ラグは古典そのもの。愛機ラジオミール(PAM00062)もびっくりである。華奢な可憐さ、とも言おうか。まさに野に咲く百合のようだ。ドレスウォッチと呼ぶに相応しい品格がある。
自動巻き3針は恐らく、ETA系列のムーヴメントを搭載していると推測するが、RGの輝きといい、手にした重量感といい、逸品と呼ぶに相応しい。個人的にはアラビア数字のデザインが今ひとつであるが、時針の仕上げ、秒針小ダイアルの位置といい、全体バランスは抜群の仕上がりを見せる。★★★★





(『アガリの考察』個人的各論〜)

何かの機会に時計を買うとしよう。
その時は真剣に情報を集めて、時計の知識も詰め込む。『俄か時計マニア』に変身だ。しかし狙った時計を手にした後は時計への興味関心は一挙に低くなり、時計の世界から遠ざかる。これがごくごくノーマルなケースだろう。スゴロクのアガリ、と同じ状況である。
しかし、時計道楽にはまり込むとそうした一本では済まされない。多分、『アガリ時計』、即ち気に入った一本の発掘が生涯の命題になるだろう。
靴やら鞄、筆記具も同様であるがのめり込めば込むほど、これで打ち止め、という終着点には簡単に辿り着かない。靴や鞄であればある意味消耗品(筆者のように20年以上も使い込むケースは多分、稀)であるので、買い足しは随時在り得る。しかし、一生モノの腕時計であればむしろ逆で、これでオシマイ、と本来割り切ることが出来るはず。
実用上からは2本+αで十分。黒革クロコのドレス時計、SS側+ブレスレットのスポーツ系、そしてお遊び用にSWATCHやダイバー系統があれば『時計ワードローブ基本形』は充足する。一方でアガリの1本を求める人間はとどのつまり、時計人、趣味人であるのだから目移りするのは生涯続く。若しくは自分の環境に合わせて目移り中断、再開の連続を繰り返すのだ。マスコミに踊らされたり、新製品に浮き足立ったりする繰り返しで始末が悪い。全てにおいて自戒の念を込めているのだが、これに自分なりの欲望やらが介入して来るとエンドレスとなる。

アガリ、とは何か。
アガリとは、@欲しい時計に巡り会うこと ⇒ Aその時計を手に入れること ⇒ B実際に使い込んで満足の結果、他の時計への購買意欲を示さなくなる、という一連のプロセスを意味する。一般的には@+Aででアガリを意味するが、実際に入手しなくとも@のように理想の時計に遭遇する『空想アガリ』でも立派なアガリである。問題は欲しい時計にも中々巡り会えず、あーだ、こーだと悩み、目移りを繰り返すパターン。しかしそうした分析やら妄想も含めてが時計道楽の根源にあるのだ。悩むと知識が必要になる。その為に自分で様々な行動パターンに挑戦する。趣味とはこうした広がりの中に身を置くこと、その状況全体を楽しむこと、かも知れない。但し、ここまで来ると可也の重症患者となってしまう。


『時計オヤジ』のアガリはPAM00062やLUC1.96、そして#2851ケースのリミテッド2000かも知れない。ノーマルなROLEXデイトジャストも良い時計だ。恐らく生涯1本に絞りきれないだろうが、それはそれで良し、と最近は自然体である。これ以外にも愛機数多(あまた)あるが、上述のメインテナンス問題を考えると時に憂鬱になる。自分でメンテを出来なくなる限界(経済的にも物理的にも)が来た時、そうした『外圧』により、更に自分の時計を絞り込むのだろう、と少々現実的に考えている昨今だ。こうした思考・行動パターンも時計愛好家の間では良くある事だ。

(リミテッド2000にみるアガリの考察〜)

閑話休題。
フランクミュラーはメカメカしさを上回るトノー型の外観・文字盤のデザインインパクトが強烈。そこが最大の魅力だ。
しかし、魅力があるからといって即、入手できないケースが一般的。いきなり終着点に手を出せれば良いが、やはり自制との戦い、が常に存在する。妥協と欲望の葛藤、両者の微妙なるパワーバランスがアガリ到達への道程となる。
以下、リミテッド2000に至るまでの紆余曲折を一部紹介する。これ以外にもまだ数種類あるが、代表的なスゴロク的展開は以下となる:


FRANCK MULLER マスターバンカー Ref.5850
2001年3月、フランクミュラーを探す旅、『イタリア巡礼』で紹介したマスターバンカー(MB)だ。
筆者の場合、リミテッド2000への第一歩はフランクミュラー別モデルでスタートした。
当時、リミテッド2000は既に完売。欧州でしか探すことが出来ない筆者の事情もあったが、欧州市場でフランクのモデルを発見することでさえ難しい時期でもあった。加えてリミテッド2000はその価格も100万円超と立派なレベル。(たかが腕時計ごときに100万円を注ぎ込む事には今でも可也の抵抗と疑問がある。されど腕時計、ここが悩ましい限り・・・)
それでは、と代役を『カサブランカ』に求めて『イタリア巡礼』に出たものの、フランクのド派手な他モデルに目移りするばかり。シンプル3針のカサブランカでは満足度は得られないと再考し、最終的に選択したのがやや大振り5850ケースのMBである。このモデルの質感は凄い。高級時計の一端を垣間見た瞬間である。しかし、リミテッド2000への憧れをMBが消し去ることはなかったのだ。『フランク(リミテッド2000)にはフランク(MB)で』という鼻っからの大博打も失敗?に終わったことには本人も唖然。我ながら恐るべし、リミテッド2000への憧憬パワー・・・





TISSOT 1925 ポルト
2001年。デイト表示は付いていないものの、このポルトの端整な文字盤には我慢出来ずの購入となる。折りしも9/11テロ直後のドバイであった。手巻プゾーcal.7001の感触も良い。これにBIG-DATE表示があればまさにリミテッド2000対抗となる。当時、思い余ってスイスのTISSOT本社に具申までしたのが恥ずかしい限り(ご返事まで頂いたが)。シンプルな3針時計は使い勝手が予想以上に宜しい。日付け合わせ不要というのも使用してみると更に便利である。限定モデルで、18金ケースも存在する。このSSケースと共に、今まで人が使っているのをまず見たことが無い。それ程、市場では希少なモデルだろう。現在でも気軽さ、という点では出番も多い。何より黒革ベルトが非常に落ち着いたシックな雰囲気を醸し出す。ビジネスにはもって来い。勿論、カジュアルにも十分使える万能モデルだ。ブレスレットは存在しないが、最近、これに似合うブレス(非純正品)を見つけた。詳しくは次編、『ブレスレットの妙』で披露しよう。






DUBEY & SCHALDENBRAND アエロディーン:  
ポルト入手の喜びから冷めやらぬ間に、2001年12月にヨルダン首都のアンマンで入手する。
BIG-DATEへの憧憬、とでも表現しようか。やはりリミテッド2000の魅力はこのオーバーサイズ・デイト表示の存在が大きい。加えて、当時は得体の知れない不思議なブランドであったこのダービー&シャルデンブラン。特にアエロディーン・デュオのおどろおどろしい文字盤には相当、興味を引かれたものだ。このケース形はトノーと呼ぶには余りに四角い。この点が好みとは異なるのだが、リミテッド2000と文字盤デザインが酷似する観点から購入となる。中身のベースエボーシュが同じなので、デザインが似るのは当然だ。
ポルト、そしてこのD&Sでも明らかなのはリミテッド2000を代役で埋めようとしている点、そして当然ながら、いずれもが代役に成り得ないことで満足感は満たされない。






POLJOT パリョート
次に入手したのが『ドイツの時計蚤の市』で偶然遭遇したPOLJOTである。
カサブランカに酷似しているものの、ケースデザインや文字盤の色使いには独自性がある。
この時計は見た瞬間に文句無く気に入ってしまった。
何よりも文字盤のサーモンピンクに白INDEXのコントラストが素晴らしい。派手のようで実は極めて地味(?)な仕上がりと感じている。スケルトンバックというのも泣かせる。ETA汎用エボーシュ搭載であるが、そんな事は問題でない。感性に訴えてくる時計に出会えた喜びは大きいものがある。トノーケースのデザイン処理にも共感するこのPOLJOTは今でも可也のお気に入りである。リミテッド2000への憧れが生んだ予想外の副産物、とでも言おうか






RAYMOND WEIL トラディション・メカニーク・トノーRW2000
ポルト、D&Sがリミテッド2000の『代役』的存在とすれば、POLJOTとこのレイモンド・ウィルは純粋にトノーモデルとして気に入ったモデル。トノーケースとしてはラグがはみ出る形で残る古典的なもの。PATEKゴンドーロ対抗と勝手に決め付けている。大人しいデザインが今までのトノーモデルとは一線を画する。大人のモデルである。どこで使っても決して恥じることは無い。完成された『全体バランス』が高得点を生む。
ここまでのプロセスから、起爆剤となったリミテッド2000のお陰で自分の興味と知識にも可也の幅と厚みをもたらしてくれた。本来はこうした紆余曲折だけで終わるところであったが、最終的にやはりリミテッド2000に辿りついてしまう。それ程『時計オヤジ』を魅惑する時計である、この期に及んでは最早、躊躇する意識も薄れる。アガリ時計に至るまで十分に『試行錯誤』を重ねてまさに期が熟した時に、『出物』と遭遇することになる。





←こちらがトノー時計としての本命『アガリ時計』。
ポルトと似て非なるデザイン、D&Sとは完成度が異なる、POLJOTとは比較の対象に出来ず、RW2000とは全くの別物・・・。こうして見るとしみじみと各時計の独自性を楽しめると共に、時計においては代役の存在で本命を打ち消す難しさ(当然だが)を実感する。
特に個性が売りのフランクミュラーでは代役などそもそも有り得ないし、美麗2851ケースにビックデイト表示の組合せとくれば唯一無二の存在が際立つ。
時計に何を求めるかで結論は全く異なるが、欲しいものは吟味に吟味を重ねた上で最終決断を下すこと。下した決断に自信を持つこと。自信が持てなければ時間をかけてでも妥協はしないこと。これがアガリ時計を見つけた時の心得ではあるまいか。問題はアガリ時計が見つからないこと。何がアガリか判らないこと。こちらの方が深刻であり、世にいる多くの時計趣味人の悩みであり、時計道の根幹にあるものではなかろうか。



(アガリの条件について〜)

どんな時計がアガリ時計になれるのだろうか。
その条件は大別して以下:
1)一般的に価格が50万円以上〜
  この価格帯になってくると全体の仕上げが俄然、丁寧になってくる。
  一方で個人差はあろうが、10万円でも30万円でも、はたまた100万円の大台に乗ろうとも
  価格の線引きは左程問題ではない。
  いずれにしても決して安くない買物だ。安ければ即買すれば済むこと。
  それが出来ぬ経済面の問題はあながち無視できない。

2)欲しくても市場に少ない、レアな時計〜
  物理的に無ければどうしようもない。アンテナを張ってじっくり待つしかない。持久戦だ。
  無いけど欲しい、人と同じでは満足できない、これが物欲の根源でもある。
  但し、レアでなくともアガリ時計としての要因を阻害する問題は全く無い。

3)『極上時計』であること〜
  冒頭で述べた条件を満たす、または可也の部分をクリアすること。
  何よりも自分で強い興味と購買(所有)意欲を持つこと。転売、投資目的で入手を意図することは論外。
  アガリ時計とはあくまで自己使用、実用目的に立脚することが大前提だ。

4)自分なりにストーリー(薀蓄)を持った時計であること〜

5)入手後にその時計で満足できること、他の時計への興味が薄れること〜
  これが最大の要素である。 例えばROLEXを入手して、その後満足できずに
  PANERAIに走ったり、APロイヤルオークやらPATEK96に目移りし始めると危ない。
  そんな状態では『アガリ時計探求の旅』はまだまだ続くこと必然。
  一旦決めたアガリ時計が白紙撤回されるケースは可也、性質(タチ)が悪いのだ。


上記の条件を満たす『アガリの時計』が『極上時計』に相当するか、独自のコダワリを持つ『最愛時計』や『身の丈に合った良質時計』に相当するかは全てその人・時計次第である。

斯く言う『時計オヤジ』は、何とかリミテッド2000に辿り着いたものの『これで全て満足、アガリの時計との遭遇により、もう時計は十分』、という境地には程遠い。他ブランドの時計含めて時計全般に対する興味は全く薄れることは未だ、無い。この先も、まだまだ『時計道』における彷徨は続きそうである。(2007/12/01)


Part-1 『リミテッド2000・本体編』はこちら
Part-2 『アガリの考察・個人的各論』はこちら
Part-3 『フランクミュラーに見るブレスレットの妙』 へと続く


フランク・ミュラー関連WEB:
『極上時計礼讃・序説』はこちら
『極上時計礼讃〜ラジオミールPAM00062』はこちら
『2001年3月、イタリア時計巡礼〜フランク・ミュラーを探す旅』はこちら
『2002年12月、スイス時計巡礼の旅〜FRANCK MULLER WATCHLAND探訪記(ジュネーヴ編・W)』はこちら
『2005年1月、FRANCK MULLER 限定モデル"WATCHLAND"6850SCのレポート』はこちら
『2006年1月、厳寒のWatch Valley時計聖地巡礼記 (その2)」(ジュネーヴ買物編)』はこちら
『2006年1月、厳寒のWatch Valley時計聖地巡礼記(その5)」(ウォッチランド再訪記)』はこちら


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