時計に関する随筆シリーズ (70)

『現代の名工・塩原研治氏がスプリングドライブを語る』





現代の名工・塩原研治(しおはらけんじ)氏のトークショウがあると聞きつけ都内某所に足を運んだ。
日本人時計関係者のお話を直接拝聴するのは実は初体験の『時計オヤジ』である。
みっちり略一時間、その内容は期待以上で、同じ日本人としてもある種の感動を覚える。
おまけに筆者と同年齢の塩原氏との対話は『歯車も噛み合い』まさに至福の時間となる・・・。



(セイコーエプソンでWマイクロアーティスト工房のリーダーがこの方、『現代の名工』である〜)


約10名の少数精鋭者軍団のリーダーである塩原氏。
スプリングドライブ(SD)”ソヌリ”や今年発表の”叡知”の開発者でも有名な氏の話が聞けるというので、興味津々で会場に足を運ぶ。嬉しいことに公演開始前の塩原氏ともじっくりとお話させて頂いたのは何よりの収穫であった。そして、ペルラージュ加工の実演と共に大変楽しいプレゼンであった。こうした機会に巡り会えたのは大変に幸運、かつ至福の時間でもあり、同時に”叡知”に関して抱いていた個人的な疑問もいくつか氷解して頂いた。

初代SDオーナーの『時計オヤジ』としても、SDの進化には大きな関心を抱いてきた。
そして今やSDはグランドセイコーの3枚看板の一つとして大きな地位を築き上げている。そんなSDの秘密を垣間見る瞬間でもあった。

(←左写真: 説明にも熱が入る塩原氏と実演担当の前島主任。素人向けに平易な言葉で分かり易く説明頂いたのが印象的。)




(⇒塩原氏の左手首の時計に興味津々〜)

恐らくSD最新モデルをされているのでは、との予想は見事にはずれた。
氏の愛用時計は50年ほど前のアンティーク、18金ケースに納められた手巻式とのこと
(⇒まず間違いなく、Grand Seikoの初代モデル、1960年製と推察)
ケース径は35mm。このサイズが日本人には一番似合うそうだ。
”叡知”のケース径も35mmであるのはここから来ている。日本人サイズとしても、今ではやや小振りではあると思うが、35mm径へのコダワリが強くあるという。
”叡知”は輸出されない。純国産、国内市場専用モデルであるがゆえに決断されたサイズであるのだ。それでも個人的にはもうワンサイズアップしたせめて36mmから37mmにして欲しかった。35mmの凝縮感も宜しいのだが、もう1〜2mm大きい方が存在感でもフィット感でも、より時代にマッチすると思うのだが。この点は哲学の問題でもあるが、塩原氏に対しては『時計オヤジ』なりの考えを意見させて頂いた。

それにしても氏が愛用するこの時計。半世紀も前の時計とは思えぬほどの出来映えである。
時計師の腕時計とは恐らく皆、こうして手入れが行き届きピカピカの時計になるのだろうが、シルバー調文字盤の大きさといい、金色のインデックス、その独特なラグ形状、光沢ある鈍い農茶色のクロコベルトといい、腕時計の原器・腕時計かくあるべし、の模範である。昔の時計には本当に良いものが多いなぁ・・・。





(⇒右写真)
展示されていた時計工具の各種。
左上の木がスイス製のジャンシャン。これにダイヤモンド粉を塗布したりして受けのエッジ部分の鏡面磨き・仕上げも行う。更に”叡知”の地板の仕上げには2週間もの時間を費やすそうだ。ペルラージュ仕上げんに使うヤスリにもメゾンによって各種あるのも面白い。

以前、ヴァシュロン・コンスタンタン本社工房で見たペルラージュのスタンプ作業の早さには度肝を抜かれた記憶が蘇るが、ここでの実演ではごく普通の速さで公開された。
鉄製の歯車やカナでさえも研磨を念入りに行えばメッキする必要も無く、光沢は勿論、サビや腐食からも防げる効果が得られる。その代わりに相応の労力と時間が費やされることになる。高級時計の所以である一つだ。






(⇒右写真: "叡知”の端整な顔立ち〜)

ご存知ノリタケとの共同開発で生まれた磁器製の文字盤も大きな魅力だ。
実は当初、ノリタケ側では年産数個の腕時計の為の開発には役員会でもNO、であったという。しかし、技術屋魂に目覚めた一人の役員の反旗が採算度外視の開発に重い腰を上げさせたという。瑠璃色というか、独特なブルーで手書きされたロゴとインデックスの絵付けが見事、というしかない。

どうして青焼きネジを使用しないのか、との筆者質問に対しては『くどいから』というのが回答だ。つまり、Cal.7R08Aにはルビーと金色の歯車・香箱、そして筋目仕上げの地板で十分な視覚効果が得られている。これ以上、何も足さない、何も引かない、というコンセプトに立脚しているのだ。敢えてゴテゴテした流行の青焼きネジは使わない。成る程、筆者所有のPATEKアクアノートでも同様なことが言えるかも知れない。
何でもかんでも青くすれば良い(ブルースティール製)、というのは素人考えであるのかも知れないなぁ、と少々考えさせられる。





(⇒右写真: 洋銀、ジャーマンシルバー製の地板がこちら〜)

ベースとなる文字盤は洋銀製。銅、亜鉛、ニッケルからなる合金でジャーマンシルバー、ニッケル・シルバーとも呼ばれる。ランゲ&ゾーネの本格派メゾンからやロジャースミス、ラング&ハイネなどの真性独立時計師も使用する本命中の本命素材である。柔軟性や耐腐食性に優れるが、その硬度から細かい加工には手間隙がかかる素材でもある。因みにランゲは塩原氏が個人的に興味あるメゾンの一つでもあるそうだ。
地板の表面には筋目加工が施される。スイス式の波型コートドジュネーヴも検討されたようだが、純和風の日本画”すやり霞”がモチーフという。ソヌリも”筋目加工”処理されているが、『時計オヤジ』の好みはやはりコートドジュネーヴ。こちらの方が見栄えも迫力も増すと思うのだが・・・。因みに少数精鋭軍団にて新作の設計・開発も同時に行う必要がある為に、ソヌリの生産は暫しお休み、になるそうだ。



(⇒右写真: 磨き上げられた香箱カバーや輪列の部品達〜)

機械式であれスプリングドライブであれ、はたまたクォーツ式であれ、『エネルギーの伝達』ということが構造上の最大の課題、と筆者は考える。つまり、如何にロスを少なくして回転・駆動パワーを伝えるかが大きな課題であるはずだ。その為に各社とも部品の軽量化を図り、新素材の開発、無注油化を研究している。

人間が生まれて、仮に赤ちゃんから80歳まで毎日腕時計を付けたとしても、そこで得られる発電エネルギーは家庭用電球で僅か2秒分にしか相当しないという。そんな微細な電力・電流を駆動エネルギーに変換するナノテクノロジーはまさにセイコー独自のマイクロテクノロジーである。SDの歴史はまさにこの電力シシテムと電気抵抗、機械抵抗との戦いにあったことが容易に想像される。








(現行のSEIKOで『時計オヤジ』が気になるのはこの3本〜』


SEIKOのグランドセイコー。
日本が生んだ実用時計の最高峰がGSだろう。
そのデザイン、メカニズム、装着感の全てが『世界トップクラス』にあると感じている。
しかし、個人的な嗜好とはいくつかズレる点もある。
例えばその針のデザイン処理について。
ドーフィン型dauphineであるのは大いに賛同する。エッジを取り去り、エッジ部分のみを鏡面仕上げにして光の反射で視認性を高めるところまでは良いのだが、針そのものがフラット処理してあるのは筆者の好みと異なる。ドーフィン針であればやはり中心線から二つに折れる感じで中央が盛り上がる方式がより本格派、伝統に則っていると考える。何よりも視覚的にも立体感を生み出し、より高級感溢れる仕上げになろうというもの。
PATEKカラトラバやショパールLUCの時針を見れば、筆者の主張が良く分かろうと言うものだ。
しかしフラット針はSEIKOスタイルであり、変えようがない。このデザインにこちらが妥協出来るかにかかる。

(⇒右写真:それでも、全体的なデザインから素晴らしいのがこのSD Ref.SBGA003〜)
下手に竜頭ガードも付いていない。そのデザイン・バランスは楽々及第点以上、可也のハイレベルにある。ROLEXデイトジャストと対抗するかのカテゴリーであり、激戦区にあるのだが、72時間のパワーリザーブといい、この黒文字盤の出来映えといい、SDとしての魅力も満載の1本である。唯一の欠点は重量が150グラムとやや重いこと。黒文字盤でブライトチタンがあればベストである。





(ブライトチタン製のSDがこちら。『白い積雪文字盤』が素晴らしいRef.SBGA011〜』


降り積もる新雪をイメージしてデザインされた文字盤の美しさは特筆モノ。
丸で屏風か日本画を見ているようだ。こんな文字盤デザインは見たことが無い。
加えてブライトチタンによる95グラムという重量も魅力である。
GSで一番売れているモデルと言うのも、まさに納得だ。
ブルースチール製の秒針も実に品があり、『新雪』に映える。
ある意味、”叡知”のノリタケ文字盤にも負けない魅力ある文字盤ではなかろうか。
精度と楽なメインテナンス、最高の実用時計を求める方にはイチオシで薦めたい。
しかし、60万円近いその価格帯はまさにスイス製実力メゾンの実用時計とぶつかるもの。
スプリングドライブvsスイスメゾン伝統の機械式、という選択を迫られる。その決断には大いに悩むところであろう。



(←左写真: 9Fキャリバーを備えた世界最高のクォーツ時計がこちら〜)

3本目がこちらの最新GSモデル。ブライトチタン製ケース径と形状を変更して登場した。
9Fキャリバーには個人的にも強い憧れがある。
ヒゲゼンマイと緩急装置(=ダイアル)を持つクォーツなど世界で9Fだけである。
極めつけは自身でクォーツ周波数の乱れを調整までする機構を備える。
上記3本は全て10気圧防水。
この9Fモデル黒文字盤と、ブライトチタン製の白文字盤SDの2本を揃えることで、時計道楽はその実用上の観点からは『完結』出来るのはなかろうか。
特に白文字盤の美麗モデルは革ベルトに替えることで、可也広いシチュエーション、TPOをこなせる万能時計になること請け合いである。


  ★  ★  ★  ★  ★


塩原氏の時計以外の趣味はバレーボールとゴルフだそう。
現在ではもっぱらゴルフ中心だそうだが、マイクロアーティスト工房にはシングル級の腕前がゴロゴロしているという。
ゴルフも時計も精度追求の観点から、共に『シングルクラス』(精度も±0〜一桁のシングルクラスの意)を追及されているのだろうか。
是非一度、塩尻の現場を訪問させて頂きたいとのお願いに快諾を頂きお別れした。
名工・塩原氏は、スイス時計業界訪問で感じた丁寧な優しさと同様な物腰を備えた日本の誇る”匠”であった。
あと20年は、後継者への匠の技の伝承も含めて、是非とも現役で頑張り続けて頂きたいもの。
蛇足であるが、メゾンもかかる匠を定年とかの縛りで失わないよう、雇用制度の枠組みにも工夫を凝らして頂きたいと思うのだが、果たして日本のサラリーマン社会においてはどうであろうか・・・。

公演の最後に塩原氏が触れていたのは、これからの時計に求められるのは『ゆとりの大切さ』ということ。
精度競争は電波時計の登場で終止符が打たれ、機械式と言えどもCOSCやGS規格にパスしたレベルでは日常生活で支障を来たすことはまずない。何よりも腕時計を身に付けなくても携帯電話があれば支障は無い時代である。精度や時間に束縛されるのではなく、『ゆったりとした自分の時間を大切にする』ことをコンセプトにした時計の開発が課題であるそうだ。フランクミュラーのカサブランカなどはまさにそうしたコンセプトに立脚したモデル。行き着くところはデザイン勝負になると思うが、SEIKOとしてどのような『ゆとり』を具現化してくれるのか楽しみだ。時計の為の時計ではなく、新素材やら新機構開発競争から距離を置いた、ゆとりある時間を楽しむ為の時計の開発を心底期待したいものである。 (2008/09/07)




(加筆修正)2011/7/22

追記1)

この項でも触れたGrand Seikoであるが、2011年に初代モデルが再度復刻されることになる。再度、というのは2001年にも120周年記念・限定300個(Cal.9S54)で金無垢モデルが復刻されているからだ。今回は18YG、プラチナ、SSの3種類が創業130周年記念として復刻される。GSスタイルの原点でもある初代モデル、これを現代の加工技術で復刻するというのは中々興味深い。勿論中身の手巻き機械は10年ぶりに新開発されたというCal.9S64。トルクコントロールが付いた3日巻き、というのも魅力的だ。裏蓋はGSライオンマークが付いたclosed。中身の機械が見れないのは、シースルーバック病の『時計オヤジ』としては少々残念。せめてChopardのようなスケルトン裏蓋をスペアで付けてくれれば有り難いのに・・・。兎も角、復刻ではあるが中身は完全のオリジナル。『羊の皮を被った狼』的な新製品といっても過言でなかろう。

ラグ形状など、一部好みが分かれる点はあるが、SEIKOファン、GSファンならずとも大注目に値する今年の1本であることに間違いない。(2011/7/22 379640)









(SEIKO関連WEBはこちら↓)

⇒ SEIKO アークチュラARCTURA 初代モデル(Cal.5M42 ダイバー)はこちら
⇒ SEIKO スプリングドライブSPRING DRIVE 初代モデル(Cal.7R68)はこちら
⇒ SEIKO セイコーファイブ(海外モデル)(Cal.7S26)はこちら

⇒ 『SEIKO KINETIC 3兄弟』はこちら
⇒ 『SEIKO Direct Drive Cal.5D44』はこちら
⇒ 『現代の名工・塩原氏がスプリングドライブを語る』はこちら

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