時計に関する随筆シリーズ(73)  

『プラハ天文時計台訪問記』



2008年3月、チェコ共和国の首都プラハを訪問した。
噂通り、町中が中世のたたずまいをそのまま残し、どの視界を切り取っても美しい。
チェコとスロバキアが分離独立前の1992年に『プラハ地区』が世界遺産に登録されたが、
その中心部に今回の目的である『プラハの天文時計台』がある。(2009/7/17)


(美しきかな、『中世の古都プラハ』〜)

かねてより一度は訪問したかったチェコの首都プラハに足を踏み入れる機会を得た。
プラハの人口は120万足らず。日本の中型地方都市、いわゆる100万都市の規模である。
『百塔のプラハ』とも呼ばれるほど尖塔が多いのはゴシック様式建築物が多いことに由来する。
935年に暗殺された聖ヴァーツラフから始まった聖人伝説。それ以来、プラハとプラハ城が建造されたと言ってよかろう。
約千年の歴史を持つプラハは歴史と戦禍に翻弄された街とも言える。
ボヘミア王国、神聖ローマ帝国時代を通じた『黄金のプラハ』の絶頂時代から、中世の宗教戦争、民族紛争、そして2つの世界大戦の荒波に巻き込まれてしまう。栄華と荒廃を繰り返した欧州でも有数の歴史ある古都、と言えるだろう。

かつての共産圏、旧東欧に属するプラハは事情通に言わせれば、分離独立後に格段に美しくなったという。理由は旧東欧時代の財政難による『放置主義』にある。街中が排気ガスや汚れでくすみ切っていたのだが、1993年の分離独立後から急速に市内の再興・美化浄化に努めた結果、本来の美しさを取り戻したのだ。以前訪問した旧東独のドレスデンにも通じる味がある。
街並みを見るだけで、何故か心が癒される安堵感を感じる。治安含めて、こんな場所は欧州広しと言えども稀有な存在である。




(←左写真:プラハを愛する某氏の油彩と対面する〜)

筆者の大先輩であるSK氏が1976年に描いたプラハ市内の油彩である。
プラハ市内某所において予期せぬ対面に感無量だ・・・。
真冬のプラハ城、ヴルタヴァ川、カレル橋の3点セットが穏やかに浮かび上がる。絵葉書の典型的な構図でもあるが、こうした名所旧跡に限らず、プラハ市内はどこを歩いてもしっとりした中世の顔立ちを今に残しているのが素敵だ。因みに516mあるカレル橋は14世紀に建造され、19世紀までこの川に架かる唯一の橋であった。

プラハ市内は左程、広くない。
時間と脚力に余裕と自信があれば、徒歩で散策することも十分可能。
まずはプラハ城まで登りつめ、そこから坂を下りつつ、途中でチェコビールを味わい一服。カレル橋を渡り、中心部散策をするのがオススメである。
流石にチェコに独立時計師や著名なメゾンは存在しない。つまり、一般の時計雑誌にはリーチ外の地域である。ここまでわざわざ足を伸ばして時計台を見(取材し)に来るマスコミはまずなかろう。





(いよいよ本題。プラハの天文時計台について〜)

ヨーロッパで本格的な時計台にお目にかかれる都市はそう多くは無い。
自身の経験ではスイスの首都、ベルン市内の時計台くらいなものである。
それ以外にもミュンヘン市庁舎のからくり時計とか、ジュネーヴ市内のトゥールドイル島にある時計塔、はたまたロンドン市内のBIG-BENもあるが、本格的な天文時計としてはベルンとこのプラハの時計台くらいなものではなかろうか。



(⇒右写真: 冒頭の夜景は昼間にはこうなる〜)

プラハの中心である旧市街広場は観光客で常にごったがえしている。
路上カフェや数々の出店など、さながら毎日がマーケットの様相で、自然とワクワクしてくる楽しい観光スポットとなっている。
そこにあるのが天文時計だ。
比較的目線に近い高さにあるので、まじまじと観察できるのが少々意外である。





(天文時計は”3部構成”から成る〜)

これ程、目線に近い時計台というのも珍しいだろう。
その分、迫力も十二分に感じることが出来る。

この天文時計は大別して3つのパートから成る。
右写真、一番下の円盤は暦表盤であり一念で一回転する。周囲には賢人の名前が一日毎に記されて、毎日動くと言う。その上、中央の文字盤が一番重要な天文図文字盤、そしてその上の小窓2つが毎正午になると人形が現れるカラクリ仕掛けの”使途の行進”が見学できる。キリストの12人の弟子が回転して窓から見えるのだ。

この時計台の歴史を振り返ると、ざっと以下のようだ:
1410年頃〜 中央部分の天文図文字盤が製作される。
1490年頃〜 暦表盤とゴシック彫刻が追加される。
1552年頃〜 修理・修復が成される。
1865〜66年頃 大規模な修復が成され、使途の像が追加される。
1945年5月〜 ドイツ軍による攻撃で深刻な被害が発生。
         木製の彫刻と暦表盤が焼失。
1948年頃〜 天文図文字盤の機械式部分が修復され、再び稼動開始。

元々の天文時計部分の製作者は時計職人のミクラシュと数学・天文学教授のシンデルとされるが、長年に亘り『作者はハヌシュ』との誤った理解であったらしい。いずれにせよ、この時計台の起源は今から500年前に遡るのだ。その頃の日本の状況を考えると、やはり欧州の文化と技術は奥が深いのである。

この時計塔自体は高さ約70m程あり、エレベーターで最上部まで昇ることが出来る。
時間が無く、生憎今回はその機会を逸したのが悔やまれるが、エレベーター途中から天文時計の内部機構を垣間見るチャンスもあると後日知った。これから訪問を考える方には必見であろう。



(←左写真)

街中にはこのように天文時計台への道看板がいたる所にある。
但し、チェコ語での記載であるがイラストがあるので外人旅行者にも判読できる。
場所を迷っても、比較的簡単に辿り着くことが出来よう。









(複雑、難解なる天文時計文字盤〜)


この文字盤を見て即座に時刻や針の意味を読み取れる御仁は殆どいないのではなかろうか。筆者に分かるのは一番外周部分のドイツ文字で描かれた古チェコ時間、その内側のローマ数字のプラハ時間(24時間表示式)だけである。内側にある小さな輪は十二宮の記号が描かれた小文字盤で、太陽(日の出、日の入り)や月(月相)の動きを表示しているらしいが、その判読方法は『時計オヤジ』には不明である。

文献やデータを漁れば分かるのかも知れないが、まさにこれこそがコンプリケーションの元祖かも知れない。天体時計の一種、とも言えよう。

屋外で風雨にさらされつつ、こうして稼動していること自体が立派な防水時計であるが、文字盤の発色の美しさも特筆に値する。金色の表示とラインが非常に印象に残る。

丁度、この時計台の真向かいにオープンカフェがある。
ここで一服がてら、のんびりとこの天文時計台を眺めるのが正しい鑑賞法だ。
それくらいのゆとりを持って散策するのがプラハ市内観光の掟、かも知れない。
筆者が訪問したのは3月であり、まだまだ冬の最中ではあったが、オーバーコートで身を包みつつも、屋外でウィンナ(ヴィエナ)コーヒーでも楽しめばプラハの空気を多少なりとも感じ取ることが出来よう。かのフランツ・カフカFranz Kafkaの愛した街でもある。(2009/07/17)


(加筆修正)2009/11/08


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