時計に関する随筆シリーズ R

「香港の”天儀軒”に、アジアの巨匠・矯大羽氏を訪ねる」
〜天儀軒鐘金表有限公司訪問記〜



(豪雨の香港、その変貌ぶりに驚く〜)

2004年8月末、香港には厚く重い雲が垂れ込めていた。
丁度、台風16号が日本を直撃している影響であろうか、豪雨と霧雨が繰り返す中、湿度も高く、非常にムシムシした香港らしい天候に迎えられた。

22年ぶりの香港であるが、予想を超えるその発展ぶりには驚くばかり。
名物?の香港サイドの高層ビル群もその数は激増しており、まさしく林立状態。どこもかしこも近代的なショッピングモールが出来ており、チム・シャ・ツイの中小店舗街の貪欲なエネルギーもどこか失せかけている印象がしたのは寂しい。


閑話休題。
今回は香港が生んだアジアの天才時計師、矯大羽(KIU・TAI・YU、きゅうたいゆ)さんを訪ねた。矯さんは1946年、中国本土の蘇州生まれ。1980年に香港に移り住み、以来、香港を拠点に活躍されている。アジア人では初めて、トゥールビヨンを自作する時計師として、また著名なアンティーク時計蒐集家としても有名であり、A.H.C.I.における唯一アジア人のメンバーでもある。トゥールビヨンは中国語で「天儀飛輪」と表記する。チラネジ付のテンワが回る姿が目に浮かぶ、まさしくぴったりの漢字表現ではなかろうか。因みに、フライング・トゥールビヨンは「飛行天儀飛輪」、ミステリー・トゥールビヨンは「神奇天儀飛輪」である。漢字表現も、なかなか味わい深いものがある。悪くはないね。

E-MAILで連絡をとろうと試みたが、ご多忙な矯さんゆえ、事前にアポの確認も出来ず、運を天に任せての直接訪問となったが、幸運にもお隣の本土・深せんへ出発される直前の矯さんと店で会うことが出来た。






(いざ「天儀軒」訪問〜)

矯さんの店舗は「天儀軒」という(=写真右)。正確には「天儀軒鐘金表有限公司」であるがここでは省略して天儀軒とする(「天儀軒鐘金表有限公司」の「金表」は一字であるがワードでは変換できないので悪しからず)。その店舗は香港サイドの大きなショッピングセンターに入っている。ショッピングセンターといっても、衣料品やら土産店、化粧品やらの小さなテナントが多数入っている巨大な雑居ビルである。おりしも日曜日のビルの中は何故か(*)フィリピン人出稼ぎ女性で溢れかえっており、その女性の熱気でムンムン。一種、異様な雰囲気だ。とてもこんな場所に(失礼!)矯さんの店があるとは俄かには信じ難い。が、探すこと10分、ありました「天儀軒」。
(*)シンガポールでもローマでも同様であるが、フィリンピンの人々は週末に本国への仕送りやら、情報交換の為に皆がある決まった場所に終日、群れるのである)





←さて、左写真が矯大羽さん。手にするのは自作、18金WG製の2針時計。ムーヴは基本的にはETAをベースにして矯さんが地板等に手を加える。中国製のムーヴは信頼性に欠けるので使用しない、と断言されていた。これで一つの謎が解けた。
この時計は売り物ですか、と尋ねたところ、基本的には全て受注生産であり在庫は無し。発注してくれれば作成するよ、ということだ。













矯さんの天儀軒は3坪ほどの広さであろうか。はっきり言ってかなり狭い!!!ここがアトリエだそうだが、一見するとあくまで修理・修復専門の工房であり、この場所であの「天儀飛輪」を製作しているとはとても思えない。なぜなら部品を作成する工作機械が何も無く、また外部からの客もひっきりなし?に入ってくる忙しい場所だから。壁一面には輝かしい矯さんの写真やらポスター、そして数々のポケット・ウォッチが飾られているが、ご本人曰く、『これらは全てガラクタ。逸品は別の場所に保管してある』そうだ。









(懐中時計、お薦めの逸品に溜息・・・)


中国の深せんで翌日から始まる時計展示会に出発する前の準備で慌しい矯さんであったが、ご推薦の懐中時計3品をお見せ頂く。

下の写真左から:
●スイスでPATENT制度が導入されたのは1888年11月からだそうだ。そのスイスPATENT第一号がこの懐中時計。受け板にはフランス語で”BREVET NO.1”の刻印が誇らしい。矯さんの説明にも熱が入る。
●真ん中はミステリー文字盤の時計。写真では文字盤が見えているが、通常は透明のガラスを通して針も、文字盤も何も見えない。全くの透明、スケスケとなる摩訶不思議な時計だ。ムーヴメントは銀色の縁取り部分上部に納められている。
●右端: 写真では見えないが、蓋の部分にはエナメルで見事な花柄の絵が描かれている。1930年製。直径6センチはゆうにある美しいムーヴメントが見える。ジャンピングセコンド方式であり、まるでクォーツ時計のように1秒1秒、秒針はジャンプして動くのだが、勿論クォーツのそれとは全く異なる優雅な動きだ。














  



矯さんのトゥールビヨンは一切、市販されないことでも有名だ。しかし、唯一の例外は今年、アンティコルムAntiquorumの創立30周年記念に出品された一品だけである。聞けば、矯さんの一人娘は現在、香港のアンティコルムに勤務しているそうだ。恐らくその関係もあり、門外不出の傑作品が1本流れたのではあるまいか、等と下衆の勘繰りをしてしまう。
(←左写真:頂いた中国語の解説本と共に矯さんと記念写真)

1992年に自作3本のトゥールビヨンを引っ提げてバーゼルデビューして以来、一躍、時代の脚光を浴び続けている矯さんであるが、噂に聞いていた温厚な人柄はまさにその通り。今回もいきなり飛び込んできた見も知らぬ日本人に、丁寧に色々とお話下さった。英語は決して達者ではないものの、その熱意と親切な応対でこちらの心も打たれる。たまたま矯さんの顧客で居合わせた葉振基さん(Mr.Thomas Yip)が通訳で手助けしてくれた。この場を借りて葉さんには感謝申し上げる。矯さんとは、短時間ながらも楽しい時間を共に頂いたが、またの再会を約束して天儀軒を後にした。次回は是非とも傑作品のトゥールビヨンを拝見させて頂きたいものだ。


最後に。第二、第三の矯さんはアジアから出てこないのであろうか。
SEIKO、CITIZENの世界2大メゾンを抱える時計大国、日本ではあるが、やはりサラリーマン社会。傑出した個性が独自に生きる道はないのであろうか。トゥールビヨンはおろか、更なる複雑時計がスイス、ドイツ以外から産み出されても不思議ではない。その最右翼はやはり技術立国、時計技術の伝統もある日本であろう。大メゾンには現代の名工も何人かいらっしゃると聞く。そうした土壌があるからこそ、もっと個性を、もっと前へ、もっと独創性を日本の時計業界に求めたいのが正直な気持ちである。超ハイテク時計では、最早、日本の独壇場である。スイス時計業界と目指す方向性が異なる点は多分にあろうが、重なる面もあるはずだ。少なくとも60年代までは、スイス時計業界の向こうを張って同じ土俵で勝負していた日本の時計である。如何にスイス時計業界と距離を置こうとも、完全に別路線を歩むことは出来ない。そうであれば、正面から機械式時計と向き合って、もっと伝統的な技術で立ち向かう姿勢が今こそ必要ではあるまいか。それが引いては、新しい日本独自の技術を創出することにもつながると信じる。



矯さんや、クロノスイスのMR.LANGとお会いして感じた共通点は、逆境でも立ち向かう「強い個人の意志」と「機械式時計への愛」である。脳ミソが歯車でしか出来ていない、根っからの時計フリーク、時計師がこれからアジアからも生まれるに違いない、と妄想しつつ香港島、中環(Central)の街並みを歩いた8月末日であった。(2004/09/03)


(追記)
『時計Begin』最新号(2008 Summer)を見て驚いた。
あの香港の矯大羽(きゅうたいゆ)さんが昨年5月に急性脳溢血で倒れたという。
何と言うことだ。時計界におけるアジアの宝、いや世界の独立時計師の宝でもある矯さんに一大事である。
そしてもう一つショックであるのは、そうした事実を時計メディアの誰も触れないこと、察知すら出来ないこと。
松山翁以外による報告は目にしたことが無いのが実に寂しい。寂しすぎる。
矯さん、時計なんぞ作れなくても良い。どうぞ一日も早いご回復をお祈りするばかりである。。。(2008/07/12)



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